第22回:ある家族の物語

family history


 私たちがみな“人生”というストーリーを生きているように、どの家族にも物語がある。それは誰もが持っている、家族の歴史だ。今を生きる私たちへ命というバトンを渡すために、親たちそして祖父母たちは、69年前の敗戦をどう生きたのか。

 占領、侵略、原爆、敗戦、進駐 — 。日本の戦争について聞くことは、平和な時代を生きる私たちにとって憂鬱なことでもある。耳をふさぎたくなるような悲しい出来事ばかりのようにも見える。

 しかし、そこにもお嫁入りがあり、命の誕生があり、新雪に足跡をつけて走り回る子どもたちの姿があった。

 特別な家族の話ではない。これは、静岡県に住むある一家の歴史だ。

 夏の終わり、家族の物語を聞いてみよう。あなたの家族にも、語るべきドラマがあるはずだ。

 

(文・小澤治美 写真・宮津かなえ)


 1930年7月13日は「ものすごく暑い」日曜日だった。日本の占領下にあった朝鮮半島仁川。教師として赴任していた宮津文質さんと母親しんさんの第二子、長女として、藤田(宮津)純子さん(84)は生まれた。のどかで色彩豊かな朝鮮での暮らし。

 15年後、日本の敗戦をうけて母親、4人の兄弟姉妹たちと釜山からの引揚船で帰国する。混乱の中、一家は山口県仙崎から父親の故郷である静岡県浜松を目指した。何もかも失い再出発した戦後 ー 。

 夏の終わり、純子さんは子どもたちに語りかける。

”田舎にいくと、屋根が藁屋根だったのよ。お米の藁ね。毎年秋になると新しく葺き替えるわけ。ずうっと黄色くきれいになってね、それがうんと印象に残ってるんだけどね。そしてね、ポプラ。高くて色がきれいでね。砧(きぬた・木や石で布を打つこと)って聞いたことある?あっちはね、夕方になるとお洗濯の砧の音が聞こえてくるの。うんとのどかな感じね。向こうの人たちはね、木綿を真っ白くお洗濯をする技術があったのね。お年寄りも男も女も真っ白い服装だったの。お年寄りは大事にされているし、優雅な感じがしたの。すごくゆったりした、そういうイメージが子どものときにあるんだけ


どね。”

 宮津一家は父親の転勤で仁川から利川へと移る。そのころ、弟の祐一さん(現在77)が生まれた。

”冬ね、10センチくらい雪が降るでしょう?「それ、雪だ」って兄さん(雅晃さん、現在86)と私と二人で、運動場をばあっと走るのよ。子犬が走るみたいに。そうすると足跡がたあっと(つく)。隅から隅まで運動場をふうふう言って走ってものすごく楽しかった思い出がある。キムチをね、私たちオモニって言っていたけど、お母さんたちがね、みんな集まって作るの。栗とか魚類とか銀杏とか、いろいろ具を入れてね。白菜の一枚一枚の葉の間に具をいれていくのよ。最後に縛って漬け込むのね。そうすると出来上がったときにどうなるか分かる?切るとバラの花みたいになるの。”

 一家はさらに水原へ。父親は大きな学校の校長に着任した。そこで純子さんは女学校へ入学するが、激しくなる戦争は少しずつ子どもたちの学校生活を変えていく。

”水原に行ったときには戦争が激しくなって食料も厳しくなってきて、そんな経験したことなかったもんだからね、うんとつらい生活だった。水原は特攻基地になったの。それで私たち女学生はかり出されてね、学校から飛行場までね、30分くらい歩くの。何をするっていうとね、飛行機の偽装網づくり。特攻隊の小さい飛行機を隠すために網をつくるの。「特攻隊が出ます、作業やめてください」っていうと、みんな飛行場のところにずうっと並んで特攻隊を送る役目もあった。あの人たち、これでもう死ににいくんだっていう、そのときの気持ちね。私が14歳くらいのときにね。つらかったよ。(飛行機が)みんなの周りを一周り二周りすると、沖縄の方を向いてシューっと行っちゃう。私たちはそれが点になるまで見ていたけどね。死にに行ったのよ。はたち前の若者が。それが戦争なのよね。それで私たちは、お昼にパンをひとつもらって、帰りました。”

 終戦の直前、末女のしのぶさん(現在69)が生まれる。お産婆さんを呼ぶこともなく、家で父親がへその緒を結ってハサミで切った。終戦の日のことを、純子さんは思い出す。

”昼間に天皇陛下の声が流れたら、その晩から朝鮮の人たちがね、ばあっと外へ出てね、わあわあ騒いでるの。

「マンセー(万歳)、マンセー」って言ってね。とにかく私たちはもう追い出されるだもんでね。帰らなきゃいけない。”

 浜松へ帰るための約半月の長旅が始まった。純子さんは当時15歳。父親は仕事の責任上ひとり残り、母親ともうひとりの弟、泰さん(現在71)を含む5人の兄弟は釜山までの汽車に乗った。そこで何日も船に乗る順番を待つ。2、3歳の子どもたちが迷子になったのか親に捨てられたのか、泣きながら走り回っている。「お姉ちゃんから離れちゃだめだよ」と言うと、泰さんがしがみついた。1週間後、コウアンマル(興安丸と推測される)という引揚船に乗る。機雷のために埠頭のある港にはつけられず、辿り着いたのは山口県仙崎だった。

”農家の納屋へ泊めてもらってサツマイモを焼き芋にして食べたね。朝出るときに、そのうちの人が小さなおにぎりをみんなにひとつずつ作ってくれて。日本の人たちは親切でね、みんなそういうふうに協力してくれたんだよ。そこに乾物屋さんが一軒あってね、牛乳が一本だけあったの。(母親は)産まれたばっかりの赤ちゃんに、おっぱいが出やしないんじゃないの。みんな欲しかったと思うけどね、「いいよ、しのぶにやれば」って言ったの。”

 旅は続く。途中線路はところどころで切断されていて、その度に次の駅まで歩いていった。とにかく浜松を目指して。原爆が投下された広島は通過できず、舟で瀬戸内海を渡った。小さな“どんこ舟”にみんな押し込まれた。

”風が強くて、雨が降り出してね。しのぶさんが死にそうになってた。水原を出るときにお父さんが言ったのよ。「この中で誰か死ぬかもしらんけども、死んだら水葬をしていけ」って。あのとき、しのぶが死ねば水葬したかもしれない。とにかく一駅でも浜松に近づくようにって、乗ったり降りたりを繰り返しながら。その途中でね、もういっぺん牛乳が手に入ったの。それも、しのぶさんにあげた。それで浜松駅に着いたわけだけだけども、この人(泰さん)はね、栄養失調でお腹がポンポンになってね、目を半開きにしてね、スースー寝てばっかりいたの。浜松駅が今考えても何か幽霊の世界みたい。真っ黒でね。あの松菱(駅前のデパート)が真っ黒に焼

 

けこげて外枠が立ってるの。向こうのほうに。東北で3.11の震災があったとき、私思い出した。ああ、浜松の駅前そうだった、おんなじだったなと思ってね。”

 戦後の生活はまさにゼロから。がれきの中からトタンや瓦、板を拾ってきて、雨を凌ぐところを作った。約一ヵ月後に帰国した父親は外に干してあるおむつをみて「ああ、しのぶは生きている」と思ったという。その父親が教壇に立つことはもうなかった。「昨日と今日の教育方針が違うということが耐えられなかった」のだ。

 今でも、純子さんは朝鮮での生活を懐かしく思う。

”迫害は何にもうけません。向こうの人たちはずいぶん我慢していたと思うよ。朝鮮の人たちが真っ白い衣を着るでしょう?日本の憲兵隊が墨をかけて歩いたっていうのを聞いたことがある。向こうの人たちはずいぶん反感を持っていたと思うよ。でも私たちにはそういう姿は見せなかったね。終戦になったその日に朝鮮人がわあっと騒いだときにはびっくりした。やっぱりあったのよ、(胸に手を置いて)ここにみんな。戦争はいけない。栄養失調で死んだ人もいるよ、そのころ。でもよく生き残った。辛かったね、子どもでも。ちゃんと栄養が元にもどって元気になっただもんで。お陰さまです。”

 そう言って純子さんは、となりに座る弟、泰さんに笑いかけた。

 特別な家族の話ではない。これは、カメラマン宮津かなえの家族の物語。私たちは誰もが、家族のドラマの続きを生きている。

 

NTM


コメント: 4
  • #4

    (日曜日, 21 9月 2014 10:13)

    かなえさんではない。残念。記者とカメラウーマンの写真は使わないですか。

  • #3

    (日曜日, 21 9月 2014 10:07)

    これは掲載したことがある記事ではありませんか。

  • #2

    NTM (土曜日, 13 9月 2014 00:01)

    ランさん、かなえさんは写真を撮っているので写ってません。残念!(笑

  • #1

    (日曜日, 07 9月 2014 10:08)

    前列左側にいるのはかなえさんですか。