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特集第24回:支援事業成功の鍵を探れ

2014/10/11


 3年前のあの日、東北沿岸のたくさんの町が黒い水の壁にのみこまれた。1万6千人近くが命を失い、いまだ2千人を超える人たちが見つかっていない。学校の体育館や公民館は避難するたくさんの人たちであふれた。山ほどの支援物資が届けられ、日本中から、世界中から、ボランティアを志願する人たちが駆けつけた。ガレキの撤去、泥かき、物資の手配、医療支援、人探し、ハンドマッサージ、子どもの学習支援、植樹 ― 。すべてを失い途方に暮れる人たちのために、できることは山ほどあった。

 そして私たちはある課題に直面する。支えられる人も支える人も、いつまでもそこに立ち止まっているわけにはいかない。いまは助けを必要としている人も、いつかはもう一度自分の足で立ち上がり生きていかなければ。

「大槌復興刺し子プロジェクト」もそうして生まれた支援事業のひとつだ。避難所のおばあちゃんたちに何か“できること”を提供したい。少しでも、自由になるお金を稼げるようになってもらいたい。狭い避難所で布巾にささやかな刺繍をしてもらうことから始まったプロジェクトは、この4-6月期だけで900万円近くを売り上げる事業へと成長した。

 純粋な売り上げだけでは自立が難しいと言われる復興支援事業。真のコミュニティビジネスへ成長するための鍵を、彼らの3年半の軌跡に探してみよう。

(文・小澤治美 写真・宮津かなえ)


 すごい人たちによる、すごいプロジェクトだと思ってほしくない ― 。「大槌復興刺し子プロジェクト」のリーダー・久保光義さんの口癖だ。震災から間もない2011年5月の立ち上げ以来、チームはあらゆる難題に直面してきた。それは、事業としてプロジェクトを引っ張る東京チームと、地元の人たちと向き合いながら製作を運営する現地チームとの葛藤の日々でもある。

 始まりは震災から数週間後、久保さんがともに岩手県岩泉町出身で幼なじみの澤向美希さんに連絡をしたところから。ふたりとも首都圏在住だが、生まれ育った故郷の惨状に何かをせずにはいられなかった。久保さんが一時仕事を休んで現地で物資支援の手配などをする間、澤向さんがその後方支援をした。

「もともと故郷で起きた震災。かなり動揺していたし、本当だったら飛んでいきたかった。でも子どもがまだ小さかったから身動きが取れない。彼がいてくれたおかげで、足は運べないけど手と頭は動かせた」

 一方、個人で活動していた吉野和也さんは東京の仕事を辞め岩手県大槌町に移住することを決意。現地で物資調達のネットワークをつくりあげていた久保さんに連絡、やりとりをするなかで、ある気になっていることを

左から:久保光義さん、澤向美希さん、小杉綾さん、(第三の男)松尾英尚さん、五十嵐順子さん
左から:久保光義さん、澤向美希さん、小杉綾さん、(第三の男)松尾英尚さん、五十嵐順子さん

打ち明ける。男の人ならガレキ撤去、若い人も避難所運営など忙しそうに動いている。でも、おばあちゃんたちは「自分たちが動くと迷惑になる」と、一日中ただじっと座っている ― 。

 その頃、吉野さんの紹介で東京チームに加わった小杉綾さんも避難所のおばあちゃんたちのことが気になっていた。

「個人的な話なんだけど、おじいちゃんが認知症で介護施設に入っていたときの、何もしないでぼーっとしている姿に重なった」

 おばあちゃんたちのために何かをやるなら「刺し子しかない」、小杉さんはそう思っていた。「刺し子」とは、木綿の布を補強したり保温性を高めたりするために幾何学模様に糸を縫いこんだもの。東北の伝統工芸として有名で、津軽の「こぎん刺し」、南部の「菱刺し」、庄内の「庄内刺し子」は日本三大刺し子といわれている。同じ手芸でも大きな音がしたり場所をとったりするミシンは狭い避難所に向かない。「刺し子」なら針と糸さえあればできる。指先を使うことは作業療法としても実績がある。なにより、かつて厳しい自然のなかで東北の女性たちが家族を思いながら針を通したであろう姿と、避難所のおばあちゃんたちが重なって見えた。

 震災後早い段階からボランティア団体の後方支援をしていた五十嵐順子さんも加わり、東京の仕事を再開した久保さんと澤向さん、小杉さん、五十嵐さんの東京チーム、現地でおばあちゃんたちの刺し子製作を運営する吉野さんの5人で「大槌復興刺し子プロジェクト」がスタートした。初期投資はひとり2万円、計10万円だ。

 まず、小杉さんが手芸店をまわり「刺し子」に合う布や糸を調達した。研究所勤務で生産管理のスペシャリストでもある五十嵐さんが、一枚の布巾に必要な糸の量を計算しデータ化した。澤向さんは知り合いのデザイナーに大槌に合う刺し子の柄を考えてもらった。町の鳥・カモメをメインにしたデザインは誰でも縫うことができるシンプルなもので、東京の人も手に取りやすいポップなものに仕上がった。

 商品化するための袋づめも、当初は東京チームの手作業。大量に届く布巾やコースターを洗濯しアイロンがけをして透明の袋に入れる。しかし問題は山積みだ。洗っても刺繍の下書きのインクがとれない。しみ取り用の洗剤をぬり込んで何時間も水に浸しておく。家中がタライや洗面器だらけになっていく。商品の質にはばらつきがあり、カモメの目がとれそうになっていたり四つ角の米印の刺繍がひとつ抜けていたり。毎晩の作業に不安がつのり、澤向さんは久保さんに泣きながら怒りをぶつけたこともある。

写真提供:大槌復興刺し子プロジェクト
写真提供:大槌復興刺し子プロジェクト

販売も東京チームの手売りが基本だった。音楽フェスや週末の復興イベントなどにブースを借り、買ってくれた人の写真を一枚一枚撮ることも忘れない。おばあちゃんたちの作ったものが東京でこんなに喜ばれているよ、と見せてあげたい。

「この3年間で、買ってくれる人たちのことをすごく意識するようになった」と、澤向さんは振り返る。

 その一方で、彼らの販売ペースを大幅に上回る現地の発注にフラストレーションが爆発することも。売れる数以上に作り手に発注しては事業としてまわらない。生産管理のプロである五十嵐さんの焦りはなおのことだ。

「一枚でも多く売らなければ死んでしまう」

 東京チームは、ときに家族総出であらゆる販売機会を網羅していった。

 2011年8月、アジア、アフリカの途上国で支援活動をするNPO「テラ・ルネッサンス」に運営を移譲。10年後の事業化を目指すと決めた。


大槌刺し子は刺し子じゃない?!

 復興支援事業がコミュニティビジネスとしてひとり立ちを目指すとき、必ず直面することがある。“同情買い”ではなく売れる商品の質をどう担保するのか、対価に値するものを提供するのだという作り手のプロ意識をどう育てていくのか。それは、被災した人たちが支援される側から商品を提供する側へ“脱皮”する過程でもある。

「事業化するなら絶対にプロの協力が要る」と考えていた小杉さんは、岐阜県高山にある「本舗飛騨さしこ」にコンタクトをとった。

「飛騨さしこ」は藍染めの木綿地に伝統の幾何学模様を施した本格工芸品だ。大槌の女性たちは大いに刺激をうけた。そしてこんな声が出始める。「飛騨さしこのような伝統柄の作品をつくりたい」、「大槌刺し子は刺し子じゃない」

 作り手として“欲”が出てきた証拠かもしれない。でも、彼女たちの「刺し子」はまだ伝統職人のそれと張り

     
     

合えるようなものではないのではないか。ビジネスとして成長していくならば、確実に“売れるもの”を生産し販売する責任が東京チームにはある。

 彼女たちの言葉にショックはうけながらも、小杉さんは自分たちのスタンスはぶれないと信じていた。

「新しい『大槌刺し子』というものを震災をきっかけにゼロからつくりあげていくという気持ちでやっていた」

「刺し子プロジェクト」が震災後3年以上を経ても成長しつづけている理由はなんだろう?

 自らを鬼軍曹と呼ぶ久保さんは、東京・大槌チームともに「求められるならばずっと提供しつづける」という共通の目標があったからだと考えている。プロジェクトの継続を最優先に考えるならば、どんなに難しい問題にも自ずと結論がでてくる。その過程で、久保さん自身も「忍耐強くなった」と感じている。

 五十嵐さんは「もっと自由に生きてもいい」と考えるようになった。会社の価値観とは違うもの、町のため、子どものために動いてもいいんだと。

「世の中そんなに悪いところじゃない」と、小杉さんも思う。

「あまりにも大きい災害に対して何もできない無力感を感じた人は多かったと思う。でも、そのままで終らせずなんとかしようって、3年半でここまでこれた」

「大槌復興刺し子プロジェクト」の3年半は、被災した人も、ボランティアを志願した人も、東京で支援する人も、ともに成長してきた歴史だ。大きく傷ついた人たちがふたたび自分の足で立ち上がることができるように。支援の先を見続けてきた活動はこれからも続いていく。


NTM

 

「大槌復興刺し子プロジェクト」を支える第三の男、松尾英尚さんについては編集後記

「大槌復興刺し子プロジェクト」ウェブサイト

2014/10/25は大感謝祭!!


コメント: 2
  • #2

    (月曜日, 27 10月 2014 09:39)

    kぁhむygの

  • #1

    (日曜日, 12 10月 2014 11:18)

    小さなことをずっと続けられる人は凄い。写真の皆さんの顔が美しく見えます。